名前についていくつか
最近、名前をつけることについて考えていた。考えがまとまったので以下に書く。正月の時間つぶしにはちょうどいいだろう。
私について
日本刀というハンドルネームで活動している。大学院生で、素朴なロマンチスト。文責は私に帰される。
本文
一週間ほど前、「名前とは愛である」という直感が頭をよぎった。ので、それについて考えていた。
まず「名前とは愛である」という考えが適用される状況について考えよう(実際のところ、俺はまずここから考え始めるべきだった! 俺がこれを考えたのは順番としては最後のことだ)。 名前をつけることが愛としての意味を持つのは、何かの対象を想って名前をつけるときだ。さしあたり、子供に名前をつける時と考えて問題はない。
次に名前について。名前をつけることとは、煎じ詰めれば個々の事物を一般化することだ(一般名詞であれ固有名詞であれそれは変わらない 今の自分と過去の自分、それらを繋ぎ留めるのは結局のところ名前だ)。
最後に愛について。愛とは自己と対象の存在によって生じるものだろう。 一方で、愛が関係性そのものであるかは疑わしく思われる。愛とは自己から対象への、ある種の流れのようなものであるように俺には感じられる(メンヘラにヤンデレ 最近は一方的な愛の例に困ることがない)。愛とは自己から対象への、ある種の流れのようなものではないか。 これはかなり重要な着想に思える。愛の表現としてプレゼントというものがある(花束や歌、手紙など)。こうしたプレゼントには渡し手と受け手が存在し、これは自己から対象へと流れる愛の関係と明らかにパラレルだ。つまり、プレゼントというのは愛の模造品なのではないか? 名前もひとつのプレゼントだ。したがって、この考えは名前に対しても適用される。
まとめよう。親が子供に対して名前をつけるとき、親は子供を想って名前をつける。その内実が何であれ、そこには親から子供への愛が(おそらくは)あり、その表現として名前がある。つまり、名前は愛の表現としてのプレゼントなのだ。子供が一番初めにもらうプレゼントとは(そして愛とは)、名前なのではないか?
そういうことは起こらない
二つの感想
今見終わったところで、最高のアニメだ!!!!勧めてきた姉が「トロプリは全員いてトロプリ」と言っていて、その意味が今、感覚的にわかった気がする。それぞれに固有の役割のあるグループとかそういう話ではなく、この中の誰か一人でも欠けていてはならないという感覚がある。これはただ彼女たちの友情によるものだ。その上で俺は二人のキャラクターについて書く。これは批評的にその二人に価値があるからではなく、単に彼女たちについて俺が思ったことがあるからだ。繰り返すが、トロプリは全員いてトロプリだ。これは信じていいことだ。
滝沢あすかについて。俺はトロプリは徹底して強者の物語だと思っていて(「足のない人が思いだけで足を生やすことができるだろうか?(いやできない)」と言っている人がいて、俺はその意見を全面的に支持する)、滝沢あすかはその中でも一番健康な肉体と、それに裏打ちされた健康な精神を持っている。まず強者に必要なのは健康な肉体なんだろう。滝沢あすかの他者に真っ直ぐぶつかっていく健康な精神には、それ以前に町の不良を軽くいなせるだけの肉亭的な強さがあると思う。俺がトロプリを通して彼女に惹かれたのには、彼女がそういう意味でトロプリの中で最も強いというところがあると思う(もちろん照れ顔がかなり萌えなこともある。結局おれはキモく、ふだん男勝りなキャラが意外とかわいい趣味を持っていることとそれを恥ずかしがっているところが好きなんだろう)。
ローラについて。最終話、人魚の一生は人間より長く、それに耐えきれなかった人魚が記憶を消す装置を作り出したことを彼女は明かす。そして結局彼女の記憶は消され、夏海まなつたち人間側の記憶も消えてしまう(ここは感動的で、見るべきシーンだ)。しかし彼女は自分なりに策を練って記憶を取り戻し、まなつたちもローラとの記憶を思い出す。そして大団円を迎えてこのアニメは終わる。もちろんこのシーンに対して否定的な意見はあるだろう。100年後、残されたローラはまだ記憶を取り戻したことを後悔していないだろうか?俺は後悔していないと思う。人生において、一瞬に起きた些細な出来事がその人の一生を支えることがある(親友と同じタイミングで笑い合えた瞬間や、用水路の淀みの美しさに気づいた瞬間だ。君にだっていいのがあるだろ)。ローラが過ごした時間や、これから過ごす時間は彼女の一生を支えるのに十分だと思う。いや!!!思うという言葉は適切ではなくて、これはただのそうであればいいなと思っているだけだ。これはたぶん、思いでなくて祈りだろう。
これを見たのはだいぶ前で、もう俺が言えることはあまり残っていない(記憶は曖昧)。俺がいうべきなのは、最終話のことだ。最終話、本編から10年後に宇宙飛行を成し遂げた星奈ひかるにフワの発する光が届くシーンでこのアニメは終わる。これは感動的だが、それより俺は描かれなかった10年間のことを考えてしまう。この10年間、星奈ひかるはどんな思いで生きてきたんだろう?夢見る季節が終わった後に、それでも夢を見ることにどれだけの勇気が要るんだろう?これは俺の想像するしかない範疇だ。
最近の趣味とスピッツについていくつか
元気です研究室が無理すぎて安定剤が7倍に増えたり止めてた煙草も始めちゃったりしたけど
最近の趣味について


最近趣味で絵を描き始めた。来海えりか(↑こいつ)の絵が少なすぎることにブチギレて始めたんだけど、けっこう楽しい。以下所感
1:絵を描き始めるにあたって俺はまず「初心者向け!絵の描き方」みたいな本を買った(詳細なタイトルをあまり覚えてない)。今思えば、これは完全に間違っていた。俺が絵を描きはじめるのに本当に必要だったのは何か描くものと、来海えりかが好きな気持ち(あとは適宜資料、ほんとうはこれだっていらない)だった。もちろん人によると思うけど(猫には猫の、アリクイにはアリクイの宇宙がある!)、俺に必要なのは本当にこれだけだった。
2:描き始めて間もない頃、こっちを見ている来海えりかを描くことが異様に多かった(見返して気づいた)。多分だけど、これは無意識に、人物を描くときに存在しているのは描かれる人だけじゃなくて描いてる自分もいるということを認識してたからかもしれない(来海えりかを想像するとき、俺は想像している俺自身の視線を明確に感じる…)。最近はそうでもない。多分じぶんの視線の存在が当たり前になったからだと思うんだけど、絵を描く人はみんな一度そういう、自分の視線を感じる段階があるんじゃないか?これは根拠のない仮説だ。
3:何ヶ月か描いてきたけど、一度も絵が上手くなりたいと思ったことがない。これは明快に説明できて、俺がしたいのは「来海えりかの絵を描く」「自分で描く」だけだからだ。今の俺に、特に向かうべき目標はない(目標がない、という言い方は正しくないかもしれない。どちらかというと「目標は毎回達成され続けている」というべきだ)
スピッツについて、いくつかの断片
スピッツに最近ハマっている。アルバムでいうとハヤブサが一番好き。音良すぎるンゴねぇ…。HOLIDAYが一番好き。
描いた絵を挙げているアカウントで知り合った友達とスピッツ最強曲議論スレをしたけど、俺が全然好きじゃない曲がその人の大好きな曲だったりして面白い。こういう間口の広さがスピッツの良さなのかもしれない(これは一つの記事になるかもしれない。今の所書く予定はない)
三日月ロック以降の何枚かのアルバムの音なんか微妙じゃない?
スーベニアのワタリのイントロめちゃめちゃロキノン系のバンド群で聞いたことある気がするんだけど誰かわかる人いる?(今の所ART-SCHOOLのWISH LISTが一番近い)
僕はジェットのサビまじでなに?
スピッツ論という本を買ったがくだらなくて適当に読み流してしまった。俺は外側から作品を解剖する検死官よりは、むしろどこまでも作品の内側に入っていく探検家でありたい。俺が言いたいのは、つまり、お前はどう感じたんだ?ということだ。
最後に、五つの選択肢がある。HOLIDAY、サンシャイン、ロビンソン、魔女旅に出る、フェイクファー、この中に世界で一番良い曲がある。好きなのを選んでくれ。
元気だったら連絡してね
院試が終わってしばらく遊んでいた。四国へ行ったり、サークルの合宿へ行ったり、おジャ魔女どれみを有り得んぐらい見たりしてたけど、そろそろ研究室へ戻らないといけない。気合い入れてかないとね。
おジャ魔女どれみの感想が下にある
おジャ魔女どれみ(も〜っと!、ドッカ~ン!、ナイショ)/東映アニメーション
全話見た。
それにしても、最終回だ!久しぶりにボロ泣きしてしまった。 前々回の記事で書いた「生きた身体を獲得するキャラクター」というテーマはこの最終話で極まる。
前にも書いたが、おジャ魔女どれみの面白いところは「話がすすむごとに、初めは記号の集合にしか見えなかったキャラクターの内面がリアルに浮かび上がってくる」という点だ。それを最もよく表しているのが春風どれみで、俺はもう初めのように春風どれみを「丸を三つ並べただけのよくある不幸キャラ」としては見られない。どれみは友達思いで、せっかちで、幼少期のトラウマがあって(そしてそれを乗り越え始めていて)、初めのころはいくじのないところもあったけどだけどだんだん成長して、意外と周りのことをよく見ていて、たまに危なっかしいぐらい自分のことよりも他人のことばかり心配して、…一言では言い表せないが、とにかく、やさしい人間だ。これは特に終盤で顕著で、49話「ずっとずっと、フレンズ」で、はづきは私立中学に入学する決断をどれみに打ち明けるとき、思った通り、どれみは絶対にはづきのことを責めない。はづきのことを一番思っているのは大親友のどれみだし、それに何より、ここまで見てきてわかっているように、どれみはそういう人間だからだ。一話で想像したような記号的なキャラクターでない、大きな器を持った優しい人間。最終話直前の俺にとって春風どれみはそういう人間だった。しかし最終話で突然、どれみはMAHO堂に引きこもる。卒業式に出席してみんなと別れたくないからだ(直前の50話でどれみはむしろ率先してそれぞれの道を歩くべきと言っていたのに!)。この幼さ! 結局のところ春風どれみはまだ小学6年生で、大親友(と娘)たちとの別れを受け入れるにはまだその肩幅は小さすぎたというだけのことだが、ここで突然どれみが俺の予想を裏切った行動をとるから最終話は面白いし、泣ける。
それと、(前書いたか忘れたが)おジャ魔女どれみで重要な「世界を描く」というもう一つのテーマ、これも最終回で極まる。
ハートキャッチプリキュア!とおジャ魔女どれみ以外で、ただのモブキャラでしかないクラスメートの掘り下げにここまで時間を使っている作品を俺は見たことがない。(これは書きかけて止めたGo!プリンセスプリキュアの感想の一部だが)GO!プリンセスプリキュアが登場人物を主要なキャラに絞ってそれぞれの成長(≒物語)を描くのに対して、ハトプリやおジャ魔女どれみが描くのは圧倒的にどれみを取り巻く世界だ。おジャ魔女どれみは200話をかけてどれみたちの家族や先生、クラスメートたちの姿を描き切った。これが最終話、どれみが助けてきたクラスメートたちが、今度は逆に立て篭もるどれみを救い出すためにMAHO堂に集結するところで結実する。集まったクラスメートたち、俺は彼らの名前も悩みも好きなものもみんな言うことができる。ここでの俺の気持ちはたぶん(完全ではなくとも)どれみと同じだったはずだ。200話分の積み重ねのおかげで、どれみたちの世界にもう十分入ることができたからだ。製作者は視聴者が俺のようになることを完全に意図して作品をつくり、そしてやり切った。多分おジャ魔女どれみの最終回が泣けるもう一つの理由は、どれみたち主人公だけでなく、どれみを取り巻く世界ともお別れしなければならないからだろう。
間違いなく、この最終話がおジャ魔女どれみのピークだ。この先はない。
全部は持っていけないよ!(でも忘れないよ絶対)
院試が終わったので、同期と一緒に四国旅行に行っていた。以下その記録
前日にいくつかの四国知識を仕入れて(海がきこえる、坂本龍馬の伝記、るるぶ、クロシオカレント)朝の0時に出発した。ぬむすぎて道中の記憶がほとんどない。

まずは香川に到着した。うどん屋の開店時間まで時間があったのでちょっと仮眠して向かった。

次にこんぴらさんに行った。軽く本宮まで行って(785段)終わる予定だったのだが、奥社をめざした結果1368段登らされ、完全に終わった。


最後の気力を振り絞って桂浜に向かった。坂本龍馬の像を見に行った。ちなみに、事前に仕入れた知識で要らなかったのが坂本龍馬の知識だった。だってあいつ全然土佐いねえんだもん!

龍馬像って浜に(なんなら斜めに)ブッ刺さってるイメージだったんだけど、よく考えたらそんなわけないよね。この日は高知城だけ行って眠った。

二日目

同期の一人が「てか北上せん?w」と言い出したので向かった。漫画みたいなありえん田舎を抜け、角度45度くらいのとんでもない山道を抜け、最後めちゃくちゃ歩き、源流点を目撃した。(多分この旅で一番キツかったと思う)。三大清流に数えられる四万十川の源流の澄み切っていて、そのまま飲めるらしい。俺も飲みました。お味は、まあ…

なんでこんなに歩いてるんだ?そのまま愛媛まで向かって道後の高いホテルに泊まった。

今まで見てきた街の中で一番都会で、名古屋で言うと本山ぐらいに見えた(帰ってみたら全然そんなことなかったです。あの時の僕らはどうかしてた)。チェックインしてから、香川のうどんと同じくらい楽しみにしてた道後温泉についに入浴!感想は一体!!!!????
三日目は特になにも。温泉に2回入ったら12時になり、寄り道せず帰った。結局名古屋に着いたのは10時前ぐらい。四国はまじで遠い。
院試終わりの慰安旅行にしては詰め込みすぎた感があるけど、四国で見たいものは大体みた感じがあります。みなさんも、こかむも先生待望の新作クロシオカレントを買ってください。そしてもう二度と俺にうどんを見せないでください。
絶対許さないって言え
思い出とも呼べないような断片的な記憶がある。小学三生生のとき、通学路沿いの用水路の淀みをじっと眺めていたことを今でも憶えている。こういった、自分でもどうして憶えているのか分からないようなワンシーンを、誰だって一つは持っているはずだ。君にだってあるだろ。
現在の自分を説明するための物語(人生と呼ばれる)を成立させるため、無意識のうちに修正されつづける他の記憶に比べて、こういう記憶の断片は修正を免れているように見える。それはそうだ。十何年前の用水路の淀みを、どうやって今の自分に結びつけるんだ?
そのため、自分の記憶(≒同一性)に自信が持てなくなったとき、人はこういったものを手がかりにして、何とか自分を取り戻そうとする。しかし、やはり他の記憶と同様に、こういった断片も修正を免れない。そこには今も必要な情報が付け加えられ、不要な情報が削除されている。俺が見ていた用水路の記憶も、実際にはもう元のままではないだろう。
これは受け入れがたいが、記憶というのはそういうものだ。
いくつかの感想を下に ネタバレが含まれているみたい!
おジャ魔女どれみ(無印、♯(映画含む))/東映アニメーション
キャラデザをハートキャッチプリキュアと同じ馬越嘉彦が手がけているので見た。これは、すごいぜ
明らかに、このキャラデザは過剰に記号的だ。棒が生えた箱みたいなずんぐり体型、丸すぎてほぼメロンパンみたいな手、そして春風どれみの髪型だ。参考資料を読むと、この記号性が意図的であることがわかる。
一話を観初めて俺は、このアニメはやはり記号性を楽しむものなのだと理解する。春風どれみは「ドジっ子キャラ」で、藤原はづきは「常識人キャラ」で、妹尾あいこは「関西人キャラ」だ。彼女たちは定められた役割をこなし(例えばどれみは「やっぱり私って世界一不幸な美少女なんだわ」と叫んで話にオチをつける役割を担っている)、俺はその様子を眺める。このアニメはそのように楽しむものなのだ、と。この時、俺は明らかにキャラクターを記号の集合としてしか見ていない。キャラデザにも話にも、彼女たちにリアルな部分は(クラスメートのマジのクソガキさを除いて)今のところ一つもないからだ。実際、この見方はしばらくの間うまくいく。
しかし二期(おジャ魔女どれみ♯)に入ってから、この見方に変化が生じてくる。どれみの母親は、どれみの頬を叩いて母親の役割を諭す(それにしても、おジャ魔女どれみの親は子供を叩く!)。藤原はづきは趣味でない洋服を着せてくる(そしてそれを言うとヒステリーを起こして泣き叫ぶ)母親のことを、それでも愛している。瀬川おんぷはチャイドルの仕事が、母親のかつての夢を押し付けられたものであることをもう理解している。こうした場面を経験するにつれ、彼女たちに対する俺の印象はだんだん変わっていく。
極め付けは♯40話『春風家にピアノがやってくる!』だ。春風どれみの母親は事故でピアニストの夢に敗れており、幼稚園時代にその夢を押し付けられ、プレッシャーに押しつぶされたどれみはトラウマでピアノが弾けなくなっている。同じ失敗を繰り返さないため、どれみの妹のぽっぷ(彼女は、自分がピアノを習わせてもらえないのは、自分がどれみより愛されていないからだと考えている)にピアノを買い与えようとしない母親にどれみは言う、「買ってあげようよ、ピアノ」。
これは、何だ?
この時、俺はもう春風どれみを記号の集合としては見られなくなっている。彼女たちには感情があり、葛藤があり、(たとえば他者を思いやる)心がある。要するに、彼女たちは生きている!
ここにきてはっきりした。俺にとってのおジャ魔女どれみは、記号の集合だったキャラクターたちが生きた身体を獲得していく物語だ。三期の話になってしまうが、『も〜っと!』第10話で彼女たちは成長する生身の体を獲得している。これは驚くべきことだ(だって記号の集合が成長するだろうか?)。
敵は海賊・不敵な休暇、海賊課の一日、A級の敵、絞首台の黙示録、死して咲く花、実のある夢、Uの世界、ルナティカン、今宵、銀河を杯にして、親切がいっぱい、過負荷都市、機械たちの時間、太陽の汗/神林長平
アグレッサーズを早く読みたいのに、シリーズを読み返すのが終わりません…
絞首台の黙示録…かなり良い。この本も神林が今まで散々擦り倒してきたテーマ「あなたがいて、わたしがいる(プリズム)」のバリエーションだが、構成が上手すぎて同じテーマの作品(今宵、銀河を杯にしてとか)と比べて異様に面白い。起きていること自体は東浩紀が解説で書いているように数行で説明できるのだが、登場人物が実は幽霊で自分の設定を自分で作っていたというツイストや、語り手の一人が実は存在しない(信用できない以前の問題だ)というミスディレクションのせいで話が400ページ近くまで膨れ上がっている。1ページで矛盾する登場人物の発言に最初はげんなりしていたが、中盤の種明かしからは一気に読み切ってしまった。神林長平は割と勢いで話を作っている節があり、終盤で物語が破綻することがよくあるのだが(「完璧な涙」とか)、これはギリギリ最後まで走り抜けた感がある。最後のシーンの意味はよく分からなかったけど。
敵は海賊・不敵な休暇…面白かった。太陽系一の海賊であるヨウメイを操ろうとする敵とそれに抗うヨウメイとの駆け引きがこのシリーズの魅力の一つなのだが、毎回突飛な設定でヨウメイが助かるので(今回はなんか謎の結界を張って助かった)、作者のヨウメイを絶対に操らせまいとする強すぎる意志に笑ってしまう。ただ、このシリーズがこれからどう進んでいくのかが気になる。初期の神林長平は何かに操られることに対する恐怖や悲しみがあったが(「踊っていないなら 踊らされているんだろうさ(狐と踊れ)」)、10年代以降の神林長平は諦念というか、むしろ操られることを肯定する方向に変化しているように感じる。80年代の神林長平の(おそらく)理想だった「絶対に操られない存在」であるヨウメイを、今の神林長平はどういう風に書くんだろうか?続きが楽しみ
